2006年08月02日

なぜ外めし道か

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今日は私がなぜこのブログに「外めし道」という名を付けたかを書きたい。「よーするにアウトドア料理でしょ」という人もいるだろう。別にそれでも構わない。だけど、私はこの言葉がみょーに取り澄ましていて生活感が感じられず、ピンと来ない。やはり外めし道でないといけないと思う。

そのためには、まずわが郷里の竹やぶに皆さんを案内せねばならない。うちの家業は竹屋であった。父まで三代続けて、竹材を製造する仕事を営んでいた。父は現在も、日本家屋の壁の下地になる「木舞」と呼ばれる竹を割ってそれを建築中の家の壁に編み込む仕事をしている。

小さいころは週末と言えば竹やぶについていった。幼いころは仕事はできなくても家に置いておくよりは、ということで、竹やぶが遊び場だった。小学校も高学年になると、それなりの労働力であるから雑用から始めて、高校のころには一通りの仕事はできる職人気取りであった。忙しい時期にはよく学校を休ませられた。ウソのような本当の話である。

そして、昼めしは竹やぶで食う弁当だ。父親がその辺の枯れ草やら木切れやら竹の端材を集めてきて焚き火をして茶を沸かした。茶がないときは笹の葉を鍋で煎ってお茶代わりにして飲んだ。忙しいので、母親もまともなおかずなどほとんど作れない。その代わり米の飯だけは力いっぱい入った弁当を食った。

これがうまいのだ。冷えためしでも口の中で咀嚼していると甘みがわいてくる。缶詰のサンマでもあれば御の字、小学生でもどんぶりめしくらいの分量は軽く食った。喉を飯が通るたび、何とも言えない幸福な気分になった。時にはその辺の野草もちょっと手を加えておかずにする。空腹と、周囲のきりっとした空気とが相まって、本当にうまかった。「外で食うめしはどうしてこんなにうまいのか!」私は子ども心に思った。

その後、気候のいいときなら割った竹を地面に敷いて、ごろんと仰向けになって昼寝をする。満腹で、うとうととしながら眺める空は美しかった。竹の葉陰を渡る風は、実にさわやかで気持ちがよかった。

結局、私はなんだかんだ言ってもあれ以上うまいモノは食っていない。やはりあれが原点だと思う。素朴でまっすぐで力強くて…そんなめしを食っていないと人間はだめになる。根拠は特にないけど、そんなことを思う。だから、あの何の飾りもないけど実にうまかった竹やぶの昼めしの感覚を大切にしたい、そんなものをこれからも追い求めたい。そんな思いを込めて、多少仰々しい気もするが、「外めし道」と名乗らせてもらった。

たかがめしで大げさだけど。

講釈はこれで最後にしますので、クリックを。



posted by 炎の料理人 at 01:13| Comment(11) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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